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イスラエルへ行き続けるのだろうか?

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 2008年10月のイスラエルから戻り、次はいつ?などと思っていたのか、定かではありませんが、イスラエルへ行かない事の方が不思議なくらい、気持ちがイスラエルと結びついてしまったようです。この年は、名古屋で祈りの祭典国際大会が行われることになったのでした。(名古屋は日本の中心という意味合いもあったようです)北海道から数名が参加する中、こちらも今となってはなぜ、この大会で琴を弾くことになったのか全く覚えていませんが、呼ばれて琴を弾く段取りが出来上がってしまいました。名古屋の事務局の方と打ち合わせをし琴を名古屋に送ったように思います。また、ここでは文化の贖いで知り合ったH姉の日舞と一緒にステージ披露することになりました。こんな大会にも参加するほどいろいろとびっくりするような出来事があったのだなと今さらのように思い出します。(このブログを書くにあたって古いレポートを読みましたが、祈りの祭典という大きな大会はイスラエルからみて東の方にある国々をイスラエルの執り成し手として鼓舞したようです) この大会には2008年に共に行った大阪からのメンバーも集まり随分と励ましにもなりました。そしてまた大阪のO師とともに10月にはイスラエルへ向かうことになったのでした。 2009年のイスラエルでの祈りの祭典には文化の贖いで知り合ったタンバリンのチームが共にいき、集会ではこのタンバリンチームの踊りにH姉の日舞、私の弾く琴で日本人タイムを盛り上げました。 イスラエルの祈りの祭典での琴演奏も2度目ではありましたが、独奏ではなくタンバリンチームの用意した曲に琴を合わせるということで少し気が楽だったように思います。少しだけ観光を楽しむ余裕もあったこの年でした。 ガリラヤ湖での祈りの時や朝日が昇った時に日本の旗を振るO師の姿。またヨムキプールという断食の時にあたったため、どこにも観光できず、ホテルで聖書の学びをし、ガリラヤ湖で泳いだのも貴重な経験でした。 そして、何よりもすごかったのは祈りの祭典主催者であるトム・ヘス師の祈りの塔にH姉と二人でタクシーに乗り、そこで琴で賛美し、祈った後にこの塔に琴を置いてきたことでした。どうして置いて来る事にしたのかこのことも自分の気持ちは今では思い出せませんが、多分神がこの後のイスラエルでの琴の働きを進めるためだったのかもしれません。私としては神さまに捧げますと祈り置い

いよいよイスラエルへ。2008年は「祈りの祭典」で琴。

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 2008年は1月に「文化の贖い」7月「祈りの祭典in北海道」と続きました。 そして、いよいよ10月はイスラエルの「祈りの祭典」へ。誘ってくださったO師が大阪の方だったので、出発は大阪から。出発に合わせて札幌から大阪へ琴を送る手配などを行いましたが、これは先のカンボジアでの演奏ですでにやり方を学んでいたため、スムーズに手配できたのでした。(さすが神さま!)演奏する曲も何とかイスラエルの曲を完成。琴の楽譜などはなかったのでCDで曲を聴いて楽譜起こしし、一人で演奏できるように作ったのでした。今思い返すとこんな風に楽譜を作るなどあり得ないことでした。楽譜を作ることなど習ったこともなく、しかも五線譜もなく、ただ耳だけで作った曲「ハティクバ」このハティクバがイスラエル国家であることも知らずに。。怖いもの知らずなのか、無鉄砲なのか。信仰がある?いやいやそれはどうなのか?今となってはあまり思い出せませんが、がむしゃらでなかったことだけは確かで、全ての責任を神さまにかぶせた私でした。でも、神さまが一番私という人間をご存知でしたからそんなことは百も承知だったのでしょう。これから続くイスラエルと琴の旅はこんな風に全て神様主導で始まったのでした。 10月1日、大阪へ移動。O師の教会の方が空港まで琴を持ってきてくださり、無事飛行機に乗せてイスラエルへ。ちなみにこの時はウズベキスタン航空でしたから当然経由はウズベキスタン。スタン国経由というのもすごかったなと思い出します。さほど大きくない空港でなんだかどこから飛行機が出発するのかもわからない空港。兵士が見張っている空港。きっと一人では行かない国。10月2日からはイスラエルで「 祈りの祭典」集会参加、観光、祈りの塔での祈り参加という 3 本立ての超ハードなツアーでした。ツアーは16人参加。全員が浴衣に着替えての集会参加です。この中で一人で琴を演奏するのでした。演奏した「ハティクバ」では集会参加者が突然、総立ち。スタンディングオーべンションか?と思いましたが、実はハティクバは国家。国家は敬意を持って立ち上がるのです。知らないって怖いことです(笑 10月2日から8日までハードな観光もこなし、イエスさまの痕跡を見た初めてのイスラエルは無事に終わりました。でも、今から10年以上も前のこのイスラエルでは空港のセキュリティチェックも厳しく、帰りの空港では琴

準備は続くけれどいよいよイスラエルです。

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 2007年10月の「祈りの祭典in北海道」での仕事が終わり、O師から「一緒にイスラエルへ行きましょう」と誘われていよいよ10月のイスラエル行きへの準備を始める私です。 でも、その前に。。1月に「文化の贖い」という集まりに昨年何かのSNSで知り合った今は友人であるH姉妹に誘われました。日本の文化は本当の神様ではなく偶像に捧げられている。この事を悔い改めて真の神に捧げるというグループ。H姉妹は日舞を捧げるという。私は?琴を捧げる!実は琴(=箏)という楽器は中国から渡ってきて日本ではお姫様の弾く楽器であったかのようですが、神道でも弾かれ続けています。また形は龍の形であるので琴を弾くものは龍使いと言われたり。。これは真の神様に悔い改めて捧げ直す必要がある。そう思って参加したのでした。 写真にもあるように書道も日本文化の1つです。道と付くものは例えば柔道や空手などのスポーツもそうですね。考えると神道に結びつくものがいろいろあります。この時は書道の方が描き終えるまで一緒に琴で賛美しました。 この出会いも本当に不思議な出会いでした。いろいろな思いがありますが、今回は省略しますね。でも、H姉妹とは一緒にイスラエルへ行くことにもなり、神さまは本当に抜かりがないかたです(笑 2008年はどんどん過ぎ、この年は7月に2回目の「祈りの祭典in北海道」が開かれました。10月のイスラエル行きが実現するための前段階でした。 この年もオープニングで琴と和太鼓で主を賛美。チーム名にSACURAとつけて演奏者も6人になったのでした。 この時点でイスラエルで何を演奏するか?決まっていたかどうか、記憶にはないのですが、この集会にイスラエル人バイオリニストのモーリス・スクラー氏が出演されて演奏した曲に「黄金のエルサレム」と「ハティクバ」がありました。これがとても心に染みて何とか琴で弾けるようにしたいと楽譜作りを始めました。当時はこの2曲の違いもよくわからず、何とか琴の楽譜にできたのは「ハティクバ」でした。耳だけで作った琴の「ハティクバ」。これをイスラエル人の前で弾こうというのですから本当にいい度胸してるなあと思うのですが、以来、この曲はイスラエルで何度も演奏することになるのでした。 O師からは「何人で琴を弾くのか?」と聞かれましたが、声をかけても一緒にイスラエルで琴を弾くと言ってくれる人は見つかりませんで

まだまだ準備?

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 2007年1月のカンボジアでの琴演奏は神さまからイスラエルへ行く前の準備であると受け取りました。神の愛を大きな虐殺のあった土地で感じ、平和とは何か? 私たち人間には神にある平和しかないのだと思ったのでした。そしてそのためにとても小さい働きではあるけれど琴の音色を様々なところへ、特にイスラエルに届けて行くことが神からしなさいと言われていることなのではないか?と少しだけ心に留め始めたのでした。 でも、まだまだイスラエルへは行けないようです。一緒に大阪に行った女性はさっさとイスラエルの祈りの祭典に出かけて行きましたが、私にはGOサイン無し。。何が足りないの? この年(2007年)、一緒に大阪へ行った若き有志たちと琴を中心にした演奏チームを作ることになりました。「チームカレブ」カレブはヨシュアと共にカナンの地に入ろう。主が共におられるからと主の約束の地に入ることを拒まなかった人です。この勇士の名前をチーム名にし、新しく演奏活動を始めました。行く場所は前のボランティアと同じでしたが、このチームは教会のミニストリーチームとして教会の覆いのあるものとなりました。チームカレブでの働きが進む中、ついに10月に北海道での祈りの祭典が開催されることになったのでした。教会の事務スタッフであった私はこの事務局として働き始めました。イスラエルでは9月〜10月のイスラエルの新年の頃が祈りの祭典時期になるため、事務局員の私がイスラエルに行けるはずはなかったのでした。大忙しでしたが、この集会を通してイスラエルへ行くための準備も進んでいきました。 北海道の祈りの祭典オープニングでは琴で賛美することも許されました。日本の文化を持って主を賛美する!という思いに満たされて和太鼓や横笛なども入り、琴を演奏する者たちも与えられました。 そして、ここで大阪から祈りの祭典事務局長として来られていたO師と再会。「姉妹、一緒にイスラエルに行き、そこでお琴を弾きますか?」と声をかけられたのでした。「はい」と返事をしました。でも、何がはい?なのか。。どうやって琴をイスラエルに持っていき、どこで弾くのか?細かいことなど全く見当もつきましせんでした。でも、海外に琴を持って行くのはカンボジアで経験済み。(神様ってすごいですよね) 誰が一緒に弾くのか? O師は数人で弾くことを希望しました。神は誰を一緒に連れていかれるのか?ここは

準備?カンボジアへ

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大阪で突然、「イスラエルでお琴弾いてくれる人はいないか?」と言われたものの、だからと言ってすぐにどこでもドアのようにイスラエルに行くわけはなく、しかも神さまは入念に準備されると言うか私がその働きに相応しいと言うのか言葉が出てきませんが、きっと逃げ出さないように準備されたのかもしれません。ですから、2006年の大阪祈りの祭典後は2007年10月の札幌での北海道の祈りの祭典を行う事務局の仕事が待っていました。 でも、その前にカンボジア。これも突然のような出来事。所属していた教会ではよくアウトリーチと称して主にアジアにチームで出かけていました。私は?無理。。お腹が弱いので危なさそうな場所には行かない。行ってみないか?と言われても断ってきたのにこのカンボジアにはなぜか行く気持ちになったのでした。どうして行く気になったのかは今でもわかりません。でも多分、海外へ琴を持って行くこと。そこでちゃんとお琴を弾くことができること。など日本以外で琴を弾く準備を神が整えてくださったように思います。 カンボジアはポルポト政権による虐殺があった国。その名残りは記念館として残されていました。あまりに酷い残酷な拷問刑の場所を見学し、「なぜ?」「私たちは生きる価値のある者ですか?」と絶望し、祈ったのでした。これにも神は応えられて素晴らしい花畑の中に馬に乗って来られ、「愛している」と語られました。私はすっかり安心して琴の演奏に臨むことができました。でこぼこ道を約5時間かけてタケオという場所にある小学校で子供達に琴の演奏やフラダンス、手話の歌を披露したり、次の日には街中に戻ってセンター平和という孤児院でもたくさん演奏しました。ここでは子供達が琴を弾いたり後片付けを手伝ってくれたりとってもフレキシブルな良い時を過ごしました。ポルポトの虐殺によってカンボジアにはお年寄りが少なく、若い人や子供達が多かったのでした。 どんな場所でも琴は弾けるし、助けがあると教えられ、イエスの愛の中で生かされていることを知ったカンボジアでした。 そしていよいよイスラエルに繋がって行く北海道祈りの祭典は10月に迫ってきました。

大阪での出会い

 せっかくブログで「どうしてイスラエルで琴を弾くことになったのか」を書くつもりになったのにまた筆が進まないの良くないですよね。 前回は2006年春に大阪へ行くことになったことで終わりました。2000年から琴の演奏で神様の仕事を始めて本当にただただ付いて行きます的にがむしゃらとも言えませんが次々と働き、少々疲れ始めていた頃に多分、神様から少し方向転換させられたのか?それとも本筋に向かわせてくださり始めたのか?というのがこの大阪行きでした。当時すでに教会事務スタッフとして働き始めていて琴の活動は少なくなり始めていたころ、大阪での「祈りの祭典」なる集会に参加することになりました。教会の若き有志たち、特に洗礼を受けたばかりの燃える人たちが行くと言う。どうして?私も行った方がいいのではないか?突然のようにこの集会に参加しようと思い立ちました。牧師も行くと言いだして教会からは6名で大阪へ。「祈り」と言うタイトルから何か祈りについて学ぶことができるのだろうか?と思っていた私にこの集会が実は「日本よ、出て来なさい」と多くのアジアの人や海外からのゲストたちが来て、イスラエルの救いを祈るものでした。イスラエルからみて東に位置する日本は目を覚まして出ていく時であるとゲストたちが日本を鼓舞した集会であるとこの時は受け取りました。特に主催者の事務局長を務めるO牧師は随分とラブコールを受けていたようです。私はと言うとなぜ、イスラエルなのかもわからず驚くことばかり。最後まで何が何かわからないような状態でしたが、感動した北海道の牧師たちが札幌でこの「祈りの祭典」を開催しようと意気込んだことを思い出します。特にゲストで来日していたマタイ・クルビラ師のメッセージに共感し、彼を札幌に招くことを決めて私の所属する教会が事務局となることが決まってしまったのでした。 そんな中、集会が終わって少し時間のあった私は一緒に行動していた教会の姉妹と大阪城へ。「天守閣から大阪は神様のものです」と叫ぼうと言い合い、向かったのでした。大声で叫ぶことはしなかったものの天守閣での役目を終え、少し大阪城内を歩くことにした私たちは大きな角笛(イスラエルではショーファーと言います)を吹く女性を見たのでした。こんなことをするのはきっと同じ集会に参加していた人に違いないとそばに寄って行き、話しかけました。やはり集会参加者で筋金入りのイス

始まり

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 数年前からなぜ、イスラエルに行き、琴を弾いているのか?ということについてまとめてみようか?という思いがあってエッセイにしてみようと何度か書き始めたものの、一向に進みません。でも、昨年NPO法人の活動を終え、そろそろこの琴を弾くということについてちゃんとまとめよう、と思い立ち、今日からブログの形にしてみることにしました。ちゃんと諦めずに続けていけるかわかりませんが、取りあえず始めてみます。 「一緒に働こう!」そう声をかけられたと思ったのです。とても素敵な笑顔で振り向きざまに。今も目に浮かびますが、黄金色に実った大きな麦畑で手を差し伸べられてその手を握り返しました。何をどう働くのかなど全く考えもせず、でも、手を握り返したらその働きは始まっていた。これが始まり。 琴との出会いは短大時代。部活のオリエンテーションが始まっていて友人が行ってみると言った箏曲部についていき、その音色に惹かれ、さらに琴を購入しなくても部活で練習すれば良いだけと言われて即入部したのでした。大抵の琴を弾く人たちは6歳頃からだというのでかなり遅咲きの私でした。でも、弾き始めると虜になり、母にねだって琴を購入、名のある先生に教わり始めます。とにかく琴の音色に魅了されて演奏家の弾く曲を手当たり次第に弾くという日々でした。母は高いものを買ったのでいっぱしの者になりなさいと言ったようですが、そのためでなく、とにかく弾き続けていたかったので名取の試験を受け、弟子を取る先生となったのでした。数年はいわゆる師匠としての活動をこなしましたが、いつの頃からか、演奏活動だけをするようになりました。どうしてこうなっていったのか?親師匠からの様々な手ほどきを受け、コンクールや放送番組に出演していく中で人前で弾く訓練のようなものが少しずつ出来上がっていったのかもしれません。そして何よりも幼い頃に「あなただけが私の神です」と告白したイエスのもとに戻った事でようやくこの方が声をかけてくださったのでした。当時一緒に琴を弾いていた女性と琴の演奏で弱い人たちのところに出ていき、琴の音色で癒しと慰めを届けたい、そう思い始めたのでした。お年寄りや児童の施設、病院、刑務所などで演奏し、証をし始めました。私たちにとっては福音を届けるという気持ちが強く、宗教活動と受け取られることもしばしばでしたが、それは苦痛ではありませんでした。 ところが数年活