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2013年と言う年

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 2012年9月のイスラエル。神さまからこの後もずっとイスラエルへ行き、琴の音色を届け続けなさいと言われたように気がしたまま、帰国。 当時の日記を読むと何とかして2013年もイスラエルに行こうと踠いている様子が見て取れます。自分の力ではないと思っていても何とかしようとするのが人間なのですね。 2012年9月に帰国してからの私は2013年のイスラエルどころかNPO法人シャロームの設立、初めての東北の大地震の地訪問などが目白押しになっています。それにイスラエル行きまで入れようとしている。。若かったな〜とただただびっくりします。 ちょっとだけ2012年の12月の事。東京で行われるハヌカの祭りの食事会に参加してました。9月に一緒にイスラエルに行った友人との再会も楽しみで一人で東京へ。この時に知り合ったのがミルトスさんの方でした。神さまがイスラエルの人脈をどんどん増やしてくれてる感じがします。 初めてイスラエル料理店に入りました。 デビットデリです。 シュニッツエルでしょうか。           友人とは初めてスカイツリーへ。 随分と意欲的で行動的な年でした。今では考えられないかもしれませんね。 で、2013年。どうも1月にイスラエルに行こうと画策していたようですが、思いだけではどうにもならないことがはっきりとします。この年はちゃんと日本にいてやるべきことをやるんだよと言う神さまの計画が次々と起こっていきました。 1月のイスラエル行きがダメになって落ち込んでいた私に神さまからの突然プレゼントが届きます。2011年3月に一緒にイスラエルに行った方から連絡。「東京に住むイスラエル人の双子の甥御さんがイスラエルで兵役を終え、日本に来るが、札幌の雪祭りを見たいと言っています。どこか1泊でいいので泊まる場所を提供してくれませんか?」とのことでした。当時も今も我が家にはお泊めさせていただける部屋はなく。。思い切ってこの時は一緒にNPOを始めようと親しくしていた方に泊めさせてもらえないか?とお願いしたのでした。 よく会えたなあと思えた出会い。 札幌駅に〇〇時に着きます。よろしく!だけで駅で待ち合わせ。来たのは4人でした。 お腹が空いたと言う彼らにマックは大丈夫?コシェルは? いろいろと考え、何とか通じた思い。無事にマックでお食事したのでした。 知人宅に泊まることになった彼らは雪祭り会場へ

2012年9月、3度目の祈りの祭典へ

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 3月のイスラエルは思いがけずのハイファ大学での演奏でした。この時は体調が悪かった。。と言う思い出ですが、思い返すとこの年だけではなく、イスラエルでは風邪をひいている時が多かったように思うのです。でも、9月は調子も良く振り返って写真を見ると結構楽しそうです。なのになぜこの9月にイスラエルに行ったのだろう?と。写真を見るまでよく思い出せませんでした。 でも、写真を見るとあ〜なるほど。友人がお母さんと一緒に行ってる!で、私は彼女たちに着いて行ったのか?そんなはずはないですよね。やはり「祈りの祭典」でちゃんと琴を弾いています。 そしてこの時も神さまのプレゼントがすごかったことを思い出しました。普通に「イスラエル祈りの祭典ツアー」に参加して普通にチケットを取っていますが、実はこの時、直前のキャンセルがあったようでお部屋が一人部屋になっていました。追加料金なしで。。ホテル暮らしが快適すぎて随分お部屋の写真を撮っています(笑 また、ツアー中にはイスラエルに住む友人たちとも会うことができ、楽しいイスラエルでした。 神さまが私にさせたいことは本当はこう言うことじゃないんだろうな〜と写真を見ていて思うのです。「慰めよ、慰めよ我が民を」と神さまが語ってくれるのはまだ先のことですが、この頃から神さまの心はこ琴の音色をご自分の民に届けることにあったのです。ここまでは準備期間?だからこそ、次の年2013年のイスラエルに続いていくのでした。 朝食! 嬉しい顔してますね。(お食事の写真もたくさん撮っていました) 友人とお母様。確かこの時もう70歳を超えていたかと思いますが、すっごくお元気でパワフルな方でした。この二人とのイスラエルは本当に楽しかった! 最初のホテルの部屋。ちょっとピンボケですが、ここに一人で泊まったのは最高でした。 ここにも一人。(まだまだ素敵な一人部屋は続きました) 祈りの祭典では彼女(ケイト・ヘス)にお世話になりました。お琴を置いてきた祈りの塔から会場までお琴を持ってきてくれました。 会場の写真はNGとのことでここで準備して撮影。これを見た海外からの参加者がとても興味を持たれて、一緒に写真撮って〜とたくさん声かけられなんだか有名人になった気分でした。 お琴はこの祈りの祭典でしか弾けませんでしたが、神さまは次の年に素晴らしいご計画を持っておられました。

2012年ハイファ大学で

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 2011年、イスラエルでの出来事が本当に嬉しくて神さまの素晴らしい愛に感動して帰国。想いに浸っていた年末年始。でも、すぐにイスラエルの日本人集会で出会ったジャーナリストのIさんにお声かけて下さったハイファ大学日本文化フェスティバル?(正確な名前忘れてしまいました) 帰国後はお琴を弾かせていただくために加古川バプテスト教会のイスラエルツアー参加の準備を始めたのでした。 当時の日記を読んでみると、このハイファ行きはすんなりと決まったのではなかったみたいです。誘ってくれたIさんが琴を運ぶのは難しいのではないか?と演奏断念のメールをくれ、相談したよしえさんは相変わらずの躊躇なし即断。彼女は神の声をしっかりと受け止めて不安など全くなし。おかげであっという間に琴運び問題は解決。ところが寸前に大きな風邪をひいてしまった私。。(多分夫の風邪がうつり、夫も私も風邪に倒れてしまった。。) 完治しないままに関空に行き、加古川バプテストのメンバーたちに出会い、初めてトルコ経由でイスラエルへ向かったのでした。イスラエルに着いてからも体調は完璧ではなく、ハイファ大学学芸員ソフィアのアパートに泊まって「風邪が治りますように」と親切に介護?してくれたのを思い出します。1番の特効薬はこのソフィアの家の猫ちゃん。確か、「こころちゃん」という猫に癒されました。 こころとお話しすると元気になってきたみたい。 私よりも若いソフィアにすっかり甘えて「ママ」って呼んでしまいました。 ハイファ大学での琴演奏は日本の曲「さくらさくら」と「富士」を用意。そしてこの年、「黄金のエルサレム」ソロバージョンを演奏。これは当時一緒に活動していた姉妹と時間をとっては編曲したもの。今弾いている「黄金のエルサレムソロバージョン」の基本が完成し、ハイファ大学での初演となりました。 演奏や加古川バプテストのミニストリーが無事に終わって一安心したものの風邪はなかなか良くならず、ツアーメンバーやIさんにはたくさんお世話になったこの時。イスラエルの人たちともたくさんの出会いがありました。 カルメル山ハイキングやカルメルアッセンブリーでの礼拝。ジャーナリストIさんのツアーは普通の聖地旅行とは全く違っていて様々のことを学んだツアーとなり充実したイスラエル旅行でした。そしてなんとこの年もイスラエルに2回行くことに。3月20日に帰国後、今度は9月

2011年いよいよイスラエル琴巡業開始!!

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 忘れられない年となった2011年。 イスラエル到着のその週に2009年に置いてきていた琴と再会。シャバット ディナーのその場で琴を弾き、よしえさんの一言「持って帰ろう」トム・ヘス氏の祈りの塔からBFPのフードバンクに琴が移されたのでした。 祈りの塔で再会した琴を調弦して弾いてます。楽譜と琴の爪とチューナーを持ってきていて本当に良かった! シャバット ディナーの会場。(ハープ隊がいました) シャバット ディナーの会場で数曲演奏! ハープの演奏で少々緊張。ジャパニーズハープと紹介されてみんな興味津々でした。       日本の「祈りの祭典」でお会いしていたトム・ヘス氏。喜んで琴を持って行きなさいと言ってくれました。 ヘス氏の祈りの塔からこのBFPのフードバンクのここに琴は移動したのでした。 これでいつでもどこででも琴の音色をお届けできます。この年にまさかこんなことになるとは思いもよりませんでした。よしえさんの行動力には今でも本当にびっくり。全てを計画された神さまが働いてくださったと今でも確信しています。2009年に琴を捧げますと言って置いて日本に帰った私を呼び戻してくれて琴と再会し、よしえさんを通して様々な場所で演奏。ダビデがサウル王に琴を弾き、その音色がサウルを慰めた箇所は私がイスラエルの民に琴の音色を届けたいという思いにつながっています。そして聖書には「琴で賛美せよ」とも書かれています。これが神さまの意志でなく何でしょう。そうですよね? BFPでは朝働く前にデボーションタイムがありますが、まずそこで演奏させて頂きました。 フードバンクで働く人たちの前での演奏。 「いつくしみ深き」の賛美は皆が立ち上がって一緒に歌ってくれました。 フードバンクで弾いていたら、訪れた男性が聞いてくれて「私の天使」なんて言ってくれて 嬉しくなってしまいました。イスラエルの方に聞いていただいて本当に幸せ。 イスラエルでの日常は日々楽しいことばかり。振り返ると苦手だった英語も何とかこなして 一緒に働く人たちとランチやショッピング、一人でバスに乗ったり、週末にはネタニヤへ旅行したり。大雨でびしょ濡れになってしまい、ドライヤーで洋服や靴を乾かしたことなどなど。思い出は尽きませんが、琴巡業の思い出が一番です。 荒野へ向かい、そこでボランティアされているおじさま達に聞いてもらいました。「マイムマイム

2011年イスラエルでボランティア。そして琴との再会。

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 2011年11月1日、ついにイスラエルひとり旅。神さまにたくさんわがまま言って韓国経由でイスラエルへ。こんな弱虫でわがままな私の祈りとも願いともつかない事を主は全部聞いてくださって無事にイスラエル入国。そして迎えにきてくれたよしえさんとシェルートに乗ってエルサレムに着いたのでした。この日はよしえさんのお部屋で休ませて頂き、翌朝、BFP(ブリッジズフォーピース)の本部に行ってまずはオリエンテーション。 いよいよイスラエルでの生活が始まりましたが、詳細はここでは書きません。今、当時書いた日記を見ながらこのブログを書いていますが、それをまたこちらに載せるのはやめておきます。。 私はとにかく心配性。でも、神さまはそんな私にたくさんの不思議と助けを用意していてくれました。この時はなんと日本からのボランティアが私を含めて5名。こんなに日本人が多かった時はなかったそうです。私はこの中で最年長。しかも英語が苦手。周りのみんながこんな私を気遣い、助けてくれました。 ボランティアしながらの思い出は着きませんが、当時フードバンクにはいろいろな国からボランティアの人たちが来ていて楽しく仕事をしました。 イスラエルの方々に配布する食料をパッキング! 重い缶詰などもありましたが、主の守りで腰を痛めることもなく、快調にお仕事しました。 2階から見るとこんな感じ。いつも2〜3人で 流れ作業してました。 Bridges For Peace Japan 公式サイト このBFP JAPANの公式サイトの中にボランティアの話が載っています。よろしかったらこちらでいろんな方々の体験談をご覧くださいね。 火曜日にイスラエルに着き、ボランティアの仕事を始めた私。初めて一人でバスに乗って仕事先まで通勤?したり、家で食事を作ったり。。思った以上に私の不安を超えて楽しい時が過ぎていきました。そして金曜日、初めてのシャバット (安息日)によしえさんから「一緒にシャバット ディナーへ行きましょう」とのお誘い。なんとそこは2009年に琴を捧げてきた場所でした。そこに琴があることをよしえさんに伝えるとすぐに確認してくれ、今でもちゃんと琴はあるとのこと。神さまは琴との再会を用意してくれていました。そして琴の爪、チューナー、楽譜を持つようにとの心を起こしてくれた主に感謝しました。 よしえさんとボラティア仲間たちと祈りの塔に向か

2011年11月はイスラエルでボランティアへ

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 この年、3月にイスラエルへ行き、そこでイスラエルとパレスチナの現実について学び、イスラエルで琴巡業を始める準備が出来上がったように思いました。 さらに、東日本大震災があり、イスラエルでも「日本のことを祈っている」と多くの方々から声をかけられ、帰国した時には大変な現実を知ることになりました。私にとっての大きな出来事はイスラエルの医療ーチームがいち早く南三陸に救援隊としてきてくれていたこと。いつか私もこの東日本大震災の地を訪れ、琴の音色をお届けしたいと思ったのでした。 そンな中イスラエルでボランティアをする事が決定しました。英語力に不安はあったものの少しだけですが、英会話の訓練?もし、初めてのイスラエルひとり旅に向けて準備を始めました。ボランティア先のBFPからは出来るだけ明るいうちにイスラエルに着く便で来るようにと言われましたが、行程的に札幌から無理なくイスラエルに行くにはコーリアンエアーが一番でした。でも、この便は夜到着。。ここから心配性の私は不安だらけになっていきました。夜に着くとすぐにBFPの本部には行けず、どこかのホテルに1泊する事、ベン・グリオン空港から多分シェルートとかいう乗合タクシーでエルサレムまで行く事、などなど。。なぜ、イスラエルでボランティアすることになったのだろう??と悔やむ心でいっぱいになり始めました。そんな私にまたもや神さまの哀れみが届きました。イスラエルで会ったよしえさんからのメール。「友人として空港まで迎えに行きます」スタッフとしては無理だけれど友人として!弱虫の私はこのメールにすがりつきました。 そして11月1日早朝、札幌から韓国経由でイスラエルへ向かったのでした。たくさんの祈りが積まれていたことと思います。なにせ、ひとり旅ですから。。 約3週間の滞在でしたから結構な荷物だったように思いますが、この荷物の中にもしかしたら神さまは琴を弾くチャンスを与えてくださるかもしれないという思いがあり、琴を弾く爪、楽譜、チューナーというまるで三種の神器のようなこの3つをバッグの中に入れたのでした。この3つさえあれば琴を弾くことができるのです。何と言っても琴はイスラエルにあるのですから。。 神さまにはとにかわがままなことをお願いしながらの旅でしたが、そのうちの一つ。「誰か一緒にイスラエルまで行く日本人が同じ飛行機に乗っていますように」札幌から韓国まで